復興する熊本と民生委員制度の碑

 熊本県は2016年4月14、16日の2回の地震によって大きな被害を受けました。その熊本城は現在復興が進んでおりますが、その入り口にある巨大な加藤清正の銅像の隣にひっそりと林市蔵の胸像があります。林市蔵は熊本県出身で内務省の役人から県知事や府知事になりましたが、地域福祉の発展に携わった人物でもあります。碑文は以下の通りです。

「民生委員の父 林市蔵 慶応3年(1867)11月28日横手町に生れる 5才で父を失い母の手一つで育ち 『林家の雑巾』といわれたほどの貧しい暮しの中で 春日小学校を経てして済々黌熊中 五高 東大法科に学び明治29年法学士となる。 北海道拓殖官に就職したが、母を失い2年間も喪に服した その後内務省に移り 山口 広島 新潟の各部長を経て 三重県知事となる。ついで東洋拓殖株式会社理事として在朝鮮8年 再び山口県知事に転出 その後大阪府知事となる 第一次欧州大戦後のインフレ時代にあい 社会福祉の急なるを悟り 方面委員制度の創設に力を注ぎ、 現在の民生委員制度の父と仰がれるに至った 昭和27年2月21日没 84才 大阪淀屋橋畔にも銅像が建てられている」

 方面委員とは、現在の民生委員のことで、 その民生委員とは、『朝日新聞』の記事から引用すると、高齢者や障害者、母子家庭など住民の生活状態を把握して福祉や子育てなどの相談に応じ、必要な支援を受けられるよう行政や専門機関に橋渡しする。児童福祉法により児童委員も兼ねる。任期は3年。報酬はなく活動費が支給される。特別職の地方公務員扱いとなる委員のことです(『朝日新聞』2010年9月19日朝刊)。 もう少しわかりやすくいうと、民生委員は、市町村の福祉課の職員ではありませんし、民間の福祉事業者の職員でもありません。ですが、地域のお年寄りや、子どもたちのことをよく理解・把握していて、広く福祉にかかわることについて相談に乗ったり、行政に橋渡ししたりしてくれる方です。普段は目立たないのかもしれませんが、皆さんが生まれ育ったような小さい範囲の地域を念頭に置いて、安心して暮らしていくにはなくてはならない委員です。 この委員が生まれるきっかけの一つに林市蔵が関わっているわけです。平瀬務の著作から、そのエピソードをひとつ紹介しましょう。

 1918年秋に大阪府知事だった林市蔵は、淀屋橋の理髪店で鏡越しに外を眺めていると、背に3歳くらいの幼児を負ぶったおかみが、重ね着の上に洗いざらしの紺のかすりを羽織り、夕刊を売っていたそうです。事情を調べると、このおかみは、幼い長女を寝たきりの夫に預け、下の子を負ぶって二人の男の子と夕刊売りに出たのですが、それでも夫は医者にもかかれぬありようだったそうです。 林市蔵は、それまで大阪府の事業は、このような夕刊売りの母子を救済してこれなかったことを、「漏救(ろうきゅう)」と考え、小河滋次郎と協議して「社会の測量」ということを考えました。それは、対象地域を絞り込み、生活困窮者の多く住む方面を重点的に調査する方法のことです。そこで、小学校の児童の通学区域を一方面として、各方面に10人から20人の委員を選び、知事からの委嘱状を渡します。委員は、庶民の中にあって貧困家庭との接触を日常的に行うことのできることが選ばれました。その方面委員に各家庭を個別に調べてもらうことにしたのです(平瀬務『民生委員の父 林市蔵』潮書房光人社、2014年pp62-69.)。

  「方面」委員というと、聞きなれないかもしれませんが、その役割は現在の民生委員・児童委員の原型といっても差し支えないものです。そうした制度を始めたのが熊本出身の林市蔵というわけです。熊本を訪れると、震災の復興を垣間見ることに加えて、地域福祉に関してもひと勉強できました(高木俊之)。